福沢書簡を読む〉                 松崎 欣一 
  1.筆まめな人、福沢諭吉
                           
 この秋、11月8日に日吉の記念館において慶應義塾創立150年の記念式典が行われることは皆さんすでにご存じのことと思います。志木会メールマガジンへの連載寄稿を編集子から依頼されたのですが、せっかくの機会なので仮に「福沢書簡を読む」と題して、とくに福沢諭吉と義塾史のあれこれについて少しばかり綴ってみようと思います。
 福沢はたいへんに筆まめな人でした。一日に何通も、しかも相当に長文で複雑な内容の書簡を書いていることもしばしばです。試みにざっと数えてみましたが、一日に3通以上を発信している例が60回ほどあります。没後100年を記念して刊行された『福沢諭吉書簡集』(全9巻、岩波書店、2001〜2003)にはそれまでに見出されたすべての福沢書簡2564通が集成されていますが、その後も30通におよぶ書簡が新たに発見され、現在までに判明している書簡総数は2594通に上っています。生涯を通じて福沢はおそらく1万通を超える書簡を書いたのではないかとの推定があります。『漱石全集』に収録された漱石の書簡が2502通だそうです。一般に学者・思想家よりも文筆家のほうが残された書簡数は多いようですから、漱石を超える福沢のこの書簡数はかなり多いといえましょう。もっとも数が多ければよいというわけでもありませんが、福沢書簡の名宛人は約600人の多く数えしかもきわめて多彩です。伊藤博文、井上馨、板垣退助、大隈重信、後藤象二郎、岩崎弥太郎・弥之助、荘田平五郎、中上川彦次郎、富田鉄之助、中村道太、早矢仕有的、森有礼、中村正直等々、それぞれの分野で近代日本の形成に重要な役割を果たした人物が沢山含まれています。家族、親族、知友、門下生などにあてて身辺の話題を細々と語っている書簡も数多く残されています。書簡はその時々の必要に応じて、差出者と受取人の当事者間に交わされる公表を前提としないコミュニケーションの手段ですから、そこには両者の心情が相当程度に吐露されるものといってよいでしょう。いわば本音が語られるということでしょうか。福沢書簡は、それを通じて近代日本の同時代史を読むと同時に、日記を残さなかった福澤の等身大の実像を読み取ることができる得難い記録であるということができるように思います。
 さて、まず初めにご紹介したいのは、今からちょうど150年前に書かれた書簡、『書簡集』第1巻所収の第2号書簡なのですが、内容は次回にお話したいと思います。


  2.私も何れ三余年は滞遊仕り候趣きに相成るべく
                           
 前回述べた第2号書簡の全文は次の通りです。内容から判断して安政5(1858)年の発信で、宛先を欠き、前半部分も失われたと思われる断簡ですがたいへん興味深い内 容の書簡です。
 通坂(つうはん)の節はいずれの罪かは存んじ申さず候(そうら)えども、遂に拝眉を得ず終身の遺恨仕(つかまつ)り候。小生義も十月中旬着府(ちやくふ)仕り、その後、□([微])に江戸の人物にも面会仕り候。先日、村田へも相訊(あいたず)ね、折角兄の御噂仕り候義に御座(ござ)候(そうろう)。村田もこの節は、一寸帰省致し候よしに御座候。
一 その後、御国元の都合如何に御座候哉(や)。事に依り御出府([ごしゅっぷ])にも相成るべき哉。それのみ相待ち居り申し候。私も何れ三、四年は滞遊仕り候趣([おもむき])に相成るべく、その内一度は御目に掛かりたき事と存じ候。尚い才([委細])は次便に申し上ぐべく候。早々頓首(そうそうとんしゅ)。 十一月廿二日 福 沢 諭 吉
この年の6月から9月にかけて、アメリカほか各国との通商条約が相次いで結ばれています。その頃、福沢は大坂の緒方塾の塾長として塾生達の上に立っていました。たまたま中津藩からの召命を受け、藩の江戸屋敷内に開かれていた蘭学塾を預かることとなり、初めて江戸へ出ました。ちょうど今から150年前、福沢塾の始まりです。冒頭の「通坂」とは大坂を通過した時の意です。江戸へ出向くについて、いったん郷 里の中津に返り、改めて江戸へ向かった際に大坂を通ったにもかかわらず、会えずに大変残念であったと述べています。そして10月中旬に江戸に到着し、その後、適塾の先輩村田蔵六(後の大村益次郎)を尋ねて貴方のことを話題にしたこと、さらに貴方が江戸へ出てくることを待ち望んでいるといっています。おそらくこの名宛ての人物は緒方塾の友人であると考えられます。ここで注目したいのは、「私も何れ三、四年」は江戸に滞在することになるだろうとあることです。少なくとも当初は、福沢自身、藩邸内の蘭学塾を暫時預かるという程度の心づもりで江戸に出て来ていたということであって、慶應義塾という学塾として、のちに本格的な展開をして行くことは予想もしていないことだったと想定されるのです。それが、結果として福沢にとって生涯を通じての大事業になって行ったのは、第一に近代日本の歴史が開幕したという、時代の大きな転換期に旺盛な知的好奇心を発揮して関わって行った福沢の姿勢、生き方にあると思われます。また、より直接的な理由としては、幕末の短い期間に3回も、欧米各国の文物、社会制度に接する貴重な機会に恵まれたことがあると考えられます。なかでも、文久2(1862)年の遣欧使節団に「翻訳方」として参加し、ヨーロッパ各国をほぼ1年間にわたって歴訪したことでした。帰国後、福沢は「外国奉行支配、調役次席、翻訳御用」に任じ、中津藩士から幕臣へと転身することになります。